文学の旅 合宿プラン

与謝野晶子の資料



三国路の晶子

 晶子の三国路の二度におよぶ来訪は、最初はかねてより高村光太郎からききおよんでいた法師温泉へ、寛や歌友たちと昭和六(一九三一)年九月四日から三泊し、旧永井宿・三国峠に遊んだ。沼田駅には猿ヶ京郵便局長や同行の井上苔溪の知人である組合製糸群馬社の沼田工場事務長小唄昌巳、法師温泉長壽館主人が出迎えた。長壽館では自動車で送迎したり、三国峠登頂のおりは駕籠を用意するなどの厚遇を受けている。吟行に来た一行は、最初はあまりに静かで山深い地に驚いたようだが、温泉の清流や素朴さの中に秋の風情に安らぎ満喫し毎夜歌を詠んだ。しかし、雨にみまわれ三国峠を途中までしか歩けなかったことや紅葉期が楽しみであろうと心残りにして帰京していった。この時に登った三国峠のことが翌年五月に水上町から越後湯沢に訪れた紀行文「上越国境の旅」で触れられており、また、利根上流の景色や水の豊かな利根渓谷の車窓が気に入っていると回想している。
 二度目は脳溢血で倒れた前年の昭和十四(一九三九)年十一月初旬であった。画家の三宅克己紹介の笹の湯温泉と法師温泉に再来した。未亡人となっており寛を思慕する歌もみられるが、三国山の紅葉を鑑賞することを成した。
 上野駅から四時間かけて来た晶子が訪れた当地は、まだ赤谷湖が造設(昭和三十三年)される前であった。現在、新幹線や関越自動車道もでき時間も半分に短縮された。湖北畔上に新しく猿ヶ京温泉郷となって姿を変えたが、静かなたたずまいだけは昔と変わらない。
 「冬柏」昭和六年九月号の消息に初出した紀行文「法師温泉の記」(『優勝者となれ』昭和七年所収)と歌「法師温泉集」九十九首(「冬柏」昭和六年九月初出)、「奥上集」七十九首(「冬柏」昭和十四年十一月初出)の作品および土地の者に乞われいくつかの歌を残した。



与謝野晶子書簡

 嶋谷静子宛 昭和14年10月24日付

 嶋谷静子様御機嫌よろしく候や
 今朝ほど御心づくしの温泉まんぢうをいただき皆々よろこび申候
 午后近江様へまゐりまたあちらにて御馳走になりあなた様の御噂をいたしたることにて候
 伊東までおでましになりにしにや御健康の御調子お宜しきなるべしなど籐子とも申せしことに候三里塚の牛はいかなる名をいただき候や
 小日山様の歓迎会のやうなることをいたしその節3日がかりにて牛のつきそひが吉田へまゐりし話だけは井上様より伺ひ申候さて十一月四日の朝九時十分上野出発笹の湯温泉へ観楓にまゐる案を立て申候が御賛成下さらばうれしかるべく候それは三宅克己先生よりさびたる美を見にゆけと申されしところ
 すなはちお宅の日本室の壁間に御かけなさるところの渓の紅葉をかかれしところに候
 湯もよきよし先生申され候
 一泊にてはうたもろくによめず候へばこの度は二泊にいたしたく存じ候
 御都合御作り下さらばうれしかるべく候
 今日近江夫人とも相談いたし日をきめしことに候
 今月とては防空デイにてだめなるべくまた紅葉も散るべくおもはれ候へば月変らばはやくおもひしにて候
 小日山氏正宗画伯、辻さん くらい井上様は無論御誘ひいたし候へづもそれほどのなかまに候御主人にも御すすめ遊ばされたく候今より井上様へも手紙さし上ぐべく候私もどうやら学校へもまゐりうるやうになり候
 明日は学校前正丸峠行きにて休みに候池の中嶋の梯のもみぢなど目に浮びて見えなつかしく御山のおもはるるころに候御からだお大事に遊ばすべく候今夜のくらき灯にてかき候へば一きは乱筆なること御ゆるし下されたく候
 十月廿四日  晶子



 館蔵の与謝野晶子書簡嶋谷静子宛は、その親密さやあまり知られていなかった二度目の三国路来訪を示す笹の湯温泉へ紅葉鑑賞の旅行案内であった。「明星」の挿絵をたびたび担当した画家の三宅克己が「さびたる美」を鑑賞するようにと勧められたもので、近江満子と計画したことがわかる。嶋谷夫妻のほかに同人で満州鉄道の小日山直登、画家の正宗得三郎、歌人の辻和歌子・井上苔渓を勧誘していたが、実際は近江満子・辻和歌子・池内英猪・万木須賀子が同行した。


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