
奥の細道の旅出発直前に書かれた芭蕉の手紙は、わずか二十行の、しかし紛れもない芭蕉直筆の手紙で、これまで不明ないし疑問とされてきたいくつかの問題点について、実に明快な解答を提供してくれた。
出発日の疑問
芭蕉が奥の細道に旅立ったのは、元禄二年(一六八九)の春のことである。その出発の日付について芭蕉は、紀行文『おくのほそ道』の中で「弥生も末の七日」と書いている。つまり三月の二十七日。この年は一月にうるうがあったので、陽暦に直せば五月十六日にあたる。
ところが、この旅に随行した門人曽良の旅日記には、「三月二十日、日出深川出船、巳ノ下刻(午前十一時ごろ)千住ニ揚ガル」と記されていて、三月二十七日出発というのは、あるいは芭蕉のフィクションかとも疑われてきた。曽良の日記には、つづいて「二十七日夜、カスカベニ泊ル」と出ているので、その間千住に滞在し旅費かせぎに俳席の指導にあたったのを省いたのだろう、というのである。
予定は二十六日
だが、この手紙によれば、そうした疑問は一挙に解決する。これは、前年の旅で世話になった岐阜の俳人安川落梧が同郷の又三郎なる者にことづけてよこした手紙に答えたもので、日付は三月二十三日。これだけでも二十日出発説は解消するが、文面にはさらに「又々たびごゝちそゞろになりて、松島一見のおもひやまず、此二十六日、江上(こうしょう)を立出候」と、出発予定日まで記されて
いる。「江上」とは隅田川のほとりの深川をさしたものにほかならない。
当時江戸駐在中だった紀州藩の医師石橋生庵の日記によると、二十三日から二十五日まで雨天続きだったことが知られるので、芭蕉は天候を考慮し、二十六日の出発予定を一日延ばして、二十七日に出発したのだろう。曽良の旅日記の「三月二十日」は、記事のつづきのぐあいからいっても、「七」の字を書き落としたものと、単純に考えていい。
転居は二月末
これに先立ち、芭蕉は決死の旅を覚悟して心残りのないようにと、住みなれた芭蕉庵を人手に譲り、すぐ近くの門人杉風(さんぷう)の別宅に身を寄せて、北国の寒気のゆるむのを待った。その転居の時期について、これまで三月節句すぎごろとされてきたが、この手紙を見ると、「はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障(さわら)んものいかゞと、先衣更着(きさらぎ)末、草庵を人にゆづる」とあって、すでに二月末には転居していたことがわかる。
新しく草庵の住人となったのは、芭蕉のような孤独の隠者ではなく、妻子のある家庭人だった。右
につづけて芭蕉が、「此人なん、妻をぐ(具)し、むすめをも(持)たりければ、草庵のかはれるやうおかしくて」と前書し、
草の戸も住かはる世
や雛(ひな)の家
の句を報じているのも、この句の発想契機を語るものとして興味深い。『おくのほそ道』では中七が「住替る代ぞ」と改稿されて、万物流転の思想と旅立ちの決意をひびかせている「草の戸も」の句も、もとは草庵の様子の変わったのが「おかしくて」という、軽い感興から詠出されたものだったのである。
風流佳人を求めて
そのほか、芭蕉がこの手紙の中で、「みちのく・三越路(みこしじ)の風流佳人のあれかしとのみに候」と言っているのも、注目すべきだろう。奥の細道の旅は、単に北国の風土に自然の美景を訪ね、風雅の伝統を探ることだけが目的だったのではない。同時に都市の華美に染まらぬ地方の未知の俳人とめぐり合い、それらの人々と句を詠み合うことを通して、転換期の俳壇に新風を開拓できたら、という大きな目標があった。東北・北陸の行く先々に風流佳人がいてほしいと念ずるばかりだ、という芭蕉の言葉は、そうした芭蕉のこの旅の前途にかけた期待を、はっきりと示している。