この通行手形は、円通寺が現在の群馬県利根郡新治村にあった猿ヶ京関所にあった。「此者弐人(このもの二人)のうち、僧壱人(ひとり)越後三島郡出雲崎罷(まかり)通候…備中国玉島、円通寺」と書かれ、「天明四年辰六月晦日(みそか)」の日付と「猿ヶ京御関所御番衆中」と記されている。
縦三十三aの和紙に書かれ、新治村内の旧家のふすまの下張りに使われていた。
猿ヶ京関所は江戸時代の三国街道にあり、ここから三国峠を越えて越後に向かう旅人が通ったところ。
これまでの定説では、良寛は「母が死亡した翌年の天明四年(一七八九)、国仙と共に信州松本から善光寺を通って七月末ごろ越後入りした」とされ、三国峠越えはなかったとみられていた。また「二人の内、僧一人」とあるため、同行者は国仙和尚ではなく「僧以外の人」ということになる。
さらに母親の死亡年については天明三年説と四年説があり、三年説が有力だったが、母の死を二ヶ月後に知って急きょ帰ったというのが自然ではないだろうかと当館では見ている。となると母の死は天明四年というこも考えられる。多くの疑問を持った手形である。