ダムの予言者
財団法人 三国路紀行文学館館長 持谷 靖子
―今、幻となる牧水あこがれの渓谷

  水源に魅せられて…

歌人・若山牧水は旅の歌人と言われるが、群馬県には彼の残した足跡がいっぱいある。 牧水の群馬の旅は八回六十一日間、その作品は四百首になろうとする歌と十三編の紀 行文に残されている。

牧水はなぜ上州の土地をこれほど訪れたのか。友の佐藤緑葉が吾妻郡東村の出で、上 州の美しさを語り故郷九州を思い起こさせたことなどもあろうが、水上では温泉につ かり「泣きたいような心地」と言い、喜志子夫人あての手紙中「日に五度くらい入っ ている」と書き送っているように、温泉が大好きで温泉豊富な群馬に来たともいえる。 しかし、一番の理由は、自身の名前の母親の「まき」と生家の前を流れている坪谷川 の水を取って「牧水」としたように、牧水は水が大好きであった。長子旅人氏の話中 にも「母の喜志子が言うに、牧水はあれでなかなかお洒落(しゃれ)だったのよ。一 日に何回顔を洗うことかと私に話してくれました」とお聞きしたことがあった。 また、牧水の沼津の家は海岸近くなので、周りの物が骨折り損と言って笑って取り合 わなかった水源を予感し、井戸掘りをしたところ清らかな水が滔々(とうとう)とわ き出して、有名な沼津牧水邸のあの池となった。

牧水が群馬を愛したのは、清らかな水が大好きで、群馬が、特に奥利根が関東の水源 地であったからであった。大正十一年の旅で「私は河の水上というものに不思議な愛 着を感ずる癖を持っている。一つの流れに沿うてしだいにそのつめまで登る。そして 峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があって、小さな瀬を作りながら流れ出して いる。というような処に出あうと、胸の苦しくなるような喜びを覚えるのが常であっ た」と記しているように、牧水は奥利根に川の源を探しに来たのであった。

そして、大正十一年十月菅沼で片品川の水源をきわめたとき「切れる様冷たいその水 を掬み返し掬み返し、幾度となく掌に掬んで、手を洗い、顔を洗い、やがて腹のふく るるまでに貪り飲んだ」の一文を認めている。牧水紀行文中には川水で顔を洗う場面 が多い。喜志子夫人の言う牧水自家での顔洗いはお洒落ではなく、水に甘えて遊んで いる牧水だった。

  外れてほしい「悲惨さ」

しかし牧水のあこがれた群馬の水源や渓谷は今、幻のものとなっている。大正7年、 牧水がきわめようとして果たせなかった藤原はダムの底に沈み、大正十一年、猿ヶ京 笹の湯から見上げた渓谷もダム湖にために消えた。いまひとつ牧水が激賞した渓谷が 幻になろうとしている。大正七年、奥利根の帰途、牧水は吾妻渓谷に魅了され、喜志 子夫人をして臨終の牧水の脳裏にあったものはこの渓谷であったと歌わしめた吾妻渓 谷だ。

大正九年、再度吾妻渓谷を訪ねた牧水は、水の精にでもなったのかダムを予感して 「この渓を挟む両岸に樹木の深い事は、この前此処を通った時に、紀行文にも書いて 置いたが今度聞いたら全て官有林であるのだそうだ。私はどうかこの渓間がいつまで も、この寂びと深みとを湛えて永久に茂っていてくれることを心から祈るものである」 とし「もしこの流れを挟んだ森林が無くなることでもあれば、諸君が自慢しているこの 渓谷は水が枯れたより悲惨なものになるに決まっている」と記した。牧水はダムの予言 をしたが、どうかこの悲惨なものになる…は外れてほしい。



持谷靖子随筆集(視点 オピニオン21)  (平成5年2月5日)
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