―大和言葉の日本語のしゃべり方学びたい
美空ひばりの「語り」
私の小学生時代、美空ひばりも小学生であった。それを言うと何か恥ずかしかったのだが、
私は美空ひばりが好きで、その歌に心ひかれ、テレビにひばりが出るとチャンネルが他に
回されないようにとひそかに思った。
父は美空ひばりが嫌いらしく、やれ口で歌っているだけだとか、ひばりは譜面が読めない
のにとか、音楽は基礎からやらねばとか私たち子供に言って聞かせていたので、お利口ぶ
っていた私はひばりを見ていると父によく思われたくて、ひばりが好きだなどとは言えな
かったのだ。
しかし、大人になるにつれ、あの流し目や田舎芝居のようなそれらしき演技が鼻について
きて、あるいは私にインテリ志向がひばり出演のチャンネルをあえて選ぶことのなくなっ
てしまった。
ところが、ひばりが九州で病気した後、不死鳥のように蘇(よみがえ)ったと週刊誌で読
んだ東京ドームでのショーを、テレビで見た。その体つきは余分なものが剥(は)がれ落
ちてすっきりと清潔で美しく、歌の方も同じように魅力的で一瞬かたずをのんで画面にく
ぎづけになってしまった。
ひばりに興味を失ってから、私も少しは経験を積みながら山里に住み土地の古老から昔話
を聞くのが楽しみとなり、故老の「語り」に興味を持ち「語り」の音声に敏感になってい
た。古老達の話を聞いた最初はその内容に捕らわれて音声には考えが至らなかったが、こ
のごろでは故老の語りの音声を聞くだけで何となく「この婆さま語るぞ」とピーンとくる
ものがあり、久しぶりのひばりの歌にそのピーンとくるものを感じていた。
ひばりの歌はまさしく「語り」だった。ひばりの歌には言葉があって、その言葉一つ一つ
がきちんと旋律に乗ってしみじみと身にしみ入ってくるのであった。人の思いは言葉によ
って相手に伝わるが、いくら美しい声でもパワーがあっても言葉が分からなければ思いは
伝わらない。ひばりは、本当に五線譜の読めない歌手であったという。だから歌詞が頼り
で、その歌詞の持っている響きを大切にし、作曲家ともやり合って言葉をどう表現するか
にこだわったという。
ひばりにとって歌とは、歌詞に表された思いをどうしたらうまく聞き手に訴えるかという
ことだった。最近のヒット曲はカタカナ、英語まじりで私には何を喚(わめ)いているか
分からない。しかしこれが今のヒット曲だ。
歌は特殊のものではない
そういえばこの土地の故老たちは長い文句の「餅の一生」「花暦」「蚕の歌」等の歌を
「歌」とも「語り」ともつかない旋律で歌い、一度聞いた現代の歌でさえも、それ流に
すぐ言葉から記憶し歌詞だけで調子よく歌っている。古老たちは、いや昔の日本人と言
った方がいい、歌は特殊のものではなく言葉の調べから自然に旋律を生み歌っていたの
だ。
明治以来の西洋音楽もいい。しかし言霊の幸(さきわ)う大和言葉のしゃべり方などと
いう教育があってもいいのではないだろうか。言葉の重みをもう少し考えてもいいので
はないか。ひばりの自伝に「わたしは日本人ですから、日本語を大切にしたい」と記し
ているが、ひばりは死んでしまった。