| 群馬県指定史跡 |
猿ヶ京関所資料館 |
| 〜江戸時代のパスポート館〜 |
| ご挨拶 | |||||||||
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| 猿ヶ京関所資料館 その役宅の建物を利用して、関所を通過した人々と 関所手形、昔の旅、猿ヶ京関所付近絵地図と参考図 良寛使用の通行手形などを展示しております。 貴重な関所の役宅の建築自体をご覧になることが 出来ると共に関連資料で江戸時代の三国街道の旅 を学習することができます。 |
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| 猿ヶ京関所資料館(猿ヶ京関所役宅)外観 |
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| @ 茅葺天井の間(かやぶきてんじょうのま) |
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| ・昔の三国街道 宿場の生活を偲ばせる物
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| 猿ヶ京の宿の生活 猿ヶ京関所のある宿場では、赤谷川が関所の手前に流れ、良く氾濫したの で川止めの宿場であったし、関所の前の宿場としての記録がある。関所役人 の扶持米を請けたり、越後大名の参勤交代の役があり、何かと物入りであっ た。次の永井の宿が越後米の集散地として栄えていたのを妬み、永井を通ら ず三国峠に通じる治部新道を新設するなど、道に頼って生きていた宿場であっ たことを示す事件もあった。 上に戻る |
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A 六畳 中の間(ろくじょうなかのま) |
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| テーマ 猿ヶ京関所付近絵地図と参考絵図 旅人が必携の持ち物に街道絵図、道中記などがあります。普通旅人が持 ち歩く 道中記、あるいは幕府が使用した絵図、猿ヶ京の村人が使用した絵図 を展示 しています。 |
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| 関所の立地と建物 | |||||||||
| 天保三年(1832)に関所を修復した際の普請帳は修理内容・ 材料・経費など詳細に記録され、関所資料としては全国的に重 要であるが、それによれば国道17号上に関所の御門があった。 関所の構造は、行間七間四尺内四尺の椽があり、梁間二間半 で一間の板ひさしがあった。表椽は巾三尺、長さ七間四尺、上間の 前には四尺の椽。内部は八畳・十二畳・七畳であった。下図絵は その資料を元にして作った復元図である。同古文書によると、天保 三年の修復は大雪などで傷んだ番所や表門、裏門、登塀などで、 屋根はカヤ、部材は松と栗、畳は近江表と琉球表。屋根板や腰板の 保護のため防腐剤として「柿しぶ」を塗っていたことなどが分かった。 上に戻る |
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| 猿ヶ京関の図(文化10年5月) 片野一司氏所蔵原図による |
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| 展示物 ・猿ヶ京関所付近絵図 猿ヶ京区有文書 ・三国街道絵図 江戸中期作 ・分間延絵図例弊使街道群馬県の分の絵図 東京国立博物館蔵 復刻 |
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| B 八畳 奥の間 (はちじょう おくのま) テーマ 関所を通過した人々と関所手形
・関所供え付の備具 1、弓・・・五張り 2、槍・・・五筋 3、鉄砲・・・十挺 4、三つ道具・・・(つく棒、さすまた、ひねり)一組 5、棒・・・十二本 一般庶民の他に関所を通った人々 ● 巡検使 幕府から直接派遣され、全国を見て回る役で 将軍代替わりの時に各地の天領、各藩領の統 治の様子を見て、幕府の政治が円滑に行われ ているか報告する。記録では三国街道には六 代将軍から十二代将軍までの計七回訪れている。 ● 佐渡奉行と新潟奉行 大名の通行の際は宿場が潤ったが、幕府の 役人でもある佐渡奉行と新潟奉行は予算がなく 安い宿泊料、休憩料の上、継立などの労役が加 わり、宿場の庶民からは歓迎されなかった。 幕末に外国との折衝を担当した川路聖膜は、佐 渡奉行の折りの日記『島根のすさみ』で永井本陣 に泊まった際の付近の様子などを記しているが、 永井本陣日記にもその時の川路の休泊の記録が 残されている。 ● 大名とその家中 越後から江戸に出るには三つのルートがあり、 越後の諸大名のルートも三つに分かれていた。 三国街道を通ることが出来たのは長岡藩と村 松藩だけであった。 村上藩、新発田藩は会津回り、与板藩、高田 藩は信州回り。しかし最短距離の三国街道が好 まれ、幕末も近くなった宝暦十年(1760年)に 新発田藩主溝口出雲守が、寛政八年(1796年) に村上藩主内藤越前守が、文政年間には与板藩 主、また高田藩も三国街道を通るようになった。 大名は数々の規制があったので自由には通れ なかったが、その家中の往来は三国街道が利用 されることが多かったようである。 ● 佐渡金山の水替人足 幕府は佐渡の金山を直轄料とし、開発した結果 金の採掘量が日本一の金山となり、重要な財源 とした。一方、江戸では享保頃から無宿者の数が 増加したので、これを捕らえた場合は「佐渡送り」 となった。三国峠にも長岡藩の者が人足を護送中、 なだれに合い、とうまる駕籠の人が助かり、家中の 者が全員遭難という悲しい話が残されている。 |
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| C 奥脇の間(おくわきのま) テーマ 良寛使用と思われる通行手形 |
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| これまでの定説では、良寛は母が死亡した翌年天明四年は、 師国仙と旅にあり、母の一年忌法要に出た後、出雲崎から 信州松本へ入り善光寺へ回ったとされている。しかし、この 猿ヶ京関所手形の発見により、その定説が果たして正しい のか謎が生まれた。 |
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| D 特別展示 毎年八月〜十二月は四季に応じて猿ヶ京関所に関する美術品 あるいは歴史資料を展示します。 |
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| 猿ヶ京関所のはじまり | |||||||||
| 関所の歴史は古い。古代には都を守るために天下の三 関所が設けられ、中世になると関銭の取り立てが主な 目的になり、朝廷、幕府、大社等が交通の要所に関所を 設け財源とした。戦国時代、特に織田信長、豊臣秀吉は 経済発展のため、領国内の関所を商業交通の促進の ために撤廃し、外国との自由貿易を活発にした。江戸幕 府は、治安を目的に創設六十年間に全国に五十三ヶ所 の関所を設け、旅人や荷物の移動の監視はもちろん、「入 り鉄砲に出女」といって、大名の反乱を防ぐため、江戸に 武具が入ることと、人質の大名の妻子が国元へひそか に帰ることを警戒したのである。 猿ヶ京関所の開設は、新治村「須川記」によれば、寛政 八年五月、三代征夷大将軍徳川家光の時に始まった。 江戸幕府は全国五十三ヶ所の関所のうち、主要な関所 として二十三ヶ所の関所を挙げ、五街道に次ぐ佐渡金 山の御金道、三国街道の関所として重要視し、北の守り としてそのひとつに挙げている。 三国街道は江戸から高崎まで中山道と道を一つにし、 三国峠を越えて新潟まで通じ、越後諸藩の大名、あるい は幕府の新潟、佐渡奉行等の通行があった。 開設当時の関守は「真田中記」等、沼田真田藩の管理 下にあったが、天和元年、真田改易時に、新たに四人が 関守となり、後の猿ヶ京関所「関所明細帳」に高野、木村、 戸部、片野氏の名が出ている。この四人は世襲で、廃止 される明治元年九月まで関所と運命を共にしている。 上に戻る |
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| 関守の仕事と改めの様子 | |||||||||
| 関守は二人宛三十日毎に交代で服務し、通関時間は明六つ(午 前六時)から、暮六つ(午後六時)で、明六つで門が開き、旅人 は溜りで人改めの順番を待ち、呼び出され、番所前にひざまづき調 べられた。手形を持たない人や犯罪者は、密かに間道を通ると、 関所破りと呼ばれ、捕まれば磔(はりつけ)、捕まって吟味中に 牢屋で死んだ者でも、塩漬けにされ刑場で磔にされるほど重い 罪であった。幕末には手形のない旅人でも、猿ヶ京の宿屋や茶 店の印鑑を貰い、五十文で通されていた。 上に戻る |
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| ご利用のご案内 開館時間 午前10時〜午後5時(12/1〜3/31までは午後4時) 休館日 毎週火・水曜日 (臨時休館あり) 入館料
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交通のご案内 ・関越自動車道月夜野インターより国道17号線を 新潟方面に約16キロメートル。 ・JR上越線後閑駅・上越新幹線上毛高原駅より 猿ヶ京行きバス35分猿ヶ京関所前下車。 ご連絡先 〒379-14 群馬県利根郡新治村猿ヶ京1144 рO278-66-1156 FAX0278-66-1180 上記不在時はрO278-66-1110 三国路与謝野晶子紀行文学館 またはрO278-66-1101 猿ヶ京ホテルにお問い合わせください。 上に戻る |
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