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猿ヶ京ホテル再発見 その3 猿ヶ京の温泉のあなどれない効能(猿ヶ京温泉小史)

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猿ヶ京温泉と言う名前が世に出たのは、昭和32年の三国トンネル開通に引き続きと同34年の相俣ダム完成による赤谷湖の出現からということになります。伝統的な温泉場と言えば江戸時代から熱海、別府、有馬など温泉番付上位の温泉がありますが猿ヶ京温泉と言う名前が温泉番付に載ることはありませんでした。なぜならば猿ヶ京には三国街道の関所があり通行人の往来を厳しく取り締まっており、関所の周辺部には御用林が設けられ要害地域として旅行者の立ち入りも制限されていました。そのため猿ヶ京温泉の源泉地である湯島河原の湯小屋で入浴するには、旅行者は通常の通行手形の他に、入湯手形を猿ヶ京関所で番人に提示するという手続きを踏まなければなりませんでした。このような不便を強いられる温泉が世に出ることがなかったのは想像できるところです。また食事を提供する宿泊施設もない湯島温泉に遠方の湯治客が来訪するはずもなく、近隣の利根郡内の湯治客に限られていました。
関所復元想像図


では、江戸時代の猿ヶ京温泉はどのような状況だったのでしょう。当時は湯島温泉と言われていました。平成3年12月発刊の『猿ヶ京温泉史』によると「現在の猿ヶ京温泉はそうではないが、昭和30年までは、猿ヶ京温泉の湯は昔ながら湯源地から引き湯されており、その源泉地は赤谷川の川底から、あるいは赤谷川の川底から、あるいは赤谷川の川底から、あるいは赤谷川の中の島から湧出していたので、その中の島を湯ノ島と呼ぶようになり、その付近一帯を湯島河原と称するようになり、温泉の名には湯島という名が付いたのであった。」とあります。


寛政三年の温泉一か所許可願いによると『疝気(漢方で、腰や下腹の内臓が痛む病気)・積気(胸や腹が急に痙攣(けいれん)を起こして痛むこと。さしこみ。)・中疝(下腹部の病)其の外諸病等も治し候義に付』とあり、それなりの効能があったことがわかります。


明治維新を迎え関所が廃止され入湯の制限がなくなった明治9年の猿ヶ京村誌には『(前略)梅毒、痛風、疥癬腰痛、寸白、痔疾、婦人病、留飯、癩気、便秘、足痛、脚気等に宜し。』とありさらに効能が増えています。
 他に明治25年7月に成立した上野鉱泉誌によると湯島温泉の効能は慢性皮膚病 頑癬 痒疹 廊瘡 座瘡 膿胞 乾癬 疥癬 癜風の類 〇遅鈍性潰瘍〇慢性気管支カタル〇腺病(以下略)(以上外浴)とあります。


その頃の湯島温泉の状況をするのに、明治21年に地元新治村の河合実太郎氏による詩文集「大宝恵」の中の生井温泉の記というものがあり当時の生井温泉を文学的に表現している貴重な史料です。文語体ですが十分意味が分かりやすい文章です。
『近来人工を以て此の地に引き来る浴室四個、地勢は西に山を負い東は川に臨み、人烟希少空気浄し納涼の適するを以て浴客常に群集す。湯質は硫酸を含むを以て、其の効殊に癩疾瘡毒疝気寸白を初めとし、其の他の疾病を治するに足る。地は絶景にして温泉は疾を治す、春は居ながら花を見るべく秋は居ながら紅葉を見るべし。一つは以て生を利くべく一つは以て病を治すべし。是れ浴客の常に群集する所以か。請う江湖※の文人墨客一たび来りて其の勝を探るあらん事を。謹んで之が記を作る。』※江湖=世間一般を指す言葉
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昭和3年5月3日に沼田町の実業家桑原恵助氏によって設立された合資会社桑原館(現在の猿ヶ京ホテル)は昭和6年に全線開通した上越線後閑駅を最寄り駅とし、ジャパンツーリストビューロー(現在のJTB)および鉄道省(現在のJR東日本)指定旅館として東京方面からの旅行客の受け入れを開始しました。
そのパンフレット『奥上州 赤谷渓谷 猿ヶ京湯島温泉 湯元旅館 桑原館ご案内』によると、『温泉の生命は人口に膾炙されてゐるといふことに依って其真価が決定されるのではないと存じます。幽仙境湯島温泉は上越線開通以来世に紹介されました温泉でございます。「湯島温泉は奥上州特有の原始的な、しかも懐かしみある温泉」とは実際に御来遊なされましたお客様のお批判でございます。慰安のない生活は全く空漠無味です、平常の繁劇なる御活動の御慰労のお休養は山の湯、湯島温泉にお来遊下さいませ。幽雅な自然味にたちかへり何等のこだわりなく谷川の囁き深山の香に親しみながら大自然其ままの大浴槽に満々と溢れる霊泉に浸る時、全く身の心も陶酔の神境に入った気持ちが致します。』とあります。
そしてその温泉は、『◇温泉 無色透明の塩類泉にて水晶の如き清澄なる霊泉は常に自然の大浴槽にイツモ心持よい温度で満満と溢れて居ります、湯量の豊富なるは本郡に其比なく本館の最も誇りとする處でございます。』とあり、その効能は『◇ 内務省衛生試験所にて分析の結果、胃腸病・婦人病・神経痛・リウマチス・皮膚病・脚気・痔疾・特に胃腸病、婦人病、痔疾、神経痛、に特効ある事は実験者の驚嘆する處で御座います。』とあります。
その後湯島温泉はこの桑原館と見晴館、長生館の三軒と昭和二年から湯島から引き湯した温泉で生井で営業を始めた相生館の笹の湯温泉とともに戦後を迎えました。
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 戦後まもなく桑原館は代替わりし猿ヶ京ホテル桑原館として飛躍の時を伺っている間もなく、群馬県による相俣ダムの建設の計画が持ち上がり、前期の四軒の旅館は移転を余儀なくされました。ここに猿ヶ京温泉が成立したわけです。
この4軒はそれぞれ自家源泉を有していましたが、相俣ダム建設時に、それぞれの源泉の代替として湯島に源泉を掘削し、4軒それぞれが4分の1ずつの所有権を持つことになりました。この源泉は「共有泉湯島」と命名され、4軒は「猿ヶ京湯元泉協同組合」を設立しました。温泉管理費を負担し、管理人を源泉近くに置き、管理運営に当ってきました。
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この「共有泉湯島」の泉質は「カルシウムナトリウム硫酸塩温泉」として温泉分析に出されその効能は「動脈硬化症・慢性皮膚病・切り傷・やけどの他に一般的な適応症(神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進)」とあります。
この共有泉湯島の源泉はかつての湯島河原の対岸、みなかみ町相俣手道甲1911にあり、当初は自噴していたとのことですが、現在は揚湯ポンプで汲み上げる形を取っています。源泉から温泉管が赤谷川にかかる湖中ダムの堰堤を渡り、いったん中継所のタンクに貯められて、そこから中継ポンプで温泉街の分湯漕に到達した温泉は現在3か所の組合員に配湯されています。中継所の流量計での温泉量は毎分700ℓ前後を測ります。


猿ヶ京ホテルでは分湯された温泉を大浴場「草の湯」「花の湯」露天風呂「瑠璃の湯」「密多の湯」貸切家族風呂「桜の湯」「楓の湯」にかけ流しで提供しております。
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源泉からの距離が長いと温泉自体の酸化が進み新鮮さが薄れると言うことを言われる学者の方もいらっしゃいますが、温泉の泉質は源泉から変わることなく供給されて来ます。温度も中継ポンプの段階で56℃がほとんど変わることなく猿ヶ京ホテルの源泉タンクに移動し、熱交換され冷却された温泉が湯口から浴槽に注がれています。温泉の力は数百メートル移動することによって変化することなく、入浴のために提供されていると思われてなりません。

参考:猿ヶ京温泉史 持谷靖子(1991)あさを社、湯島温泉パンフレット(昭和初期)
次回 〇猿ヶ京ホテル再発見その4 ”容姿端麗⁉”30年以上、お豆富をつくっています。