お知らせBLOG

〇猿ヶ京ホテル再発見 その5 猿ヶ京と言う不思議な地名

IMG_3614'
若山牧水と与謝野晶子の文学碑がある猿ヶ京歌碑公園


猿ヶ京ホテルの住所は群馬県利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉1171。もともとは新治村大字猿ヶ京であったところ合併を期にこの地域の住民が「温泉地として埋もれてはならない」と言う思いを込めて大字名に温泉を付けて「猿ヶ京温泉」に変更しました。
ではそもそも猿ヶ京とはいつ名付けられたのでしょうか。それについては江戸時代中期の天和元年(1681)頃に改易された沼田真田氏の家老加沢平次左ヱ門によって成立したと言われる『加沢記』に下記のような話が伝わっています(要約)。

keiri@sarugakyo.net_20190406_092409_0009
上杉謙信にちなんだ武者行列


1、上杉謙信と猿ヶ京
永禄三年(1560)、越後の上杉謙信が三国峠を越えて宮野と言われていたこの地の城に泊まりました。その夜謙信は 大好きな酒を飲み、気持ちよく眠りについた所、奇妙な夢を見ました。宴会の席でお膳に箸が片一方しかなく、料理を口に入れたとたん、歯がいっきに 8本も抜け、手の中に落ちてしまったという夢です。翌朝、大事ないくさの前に不吉な夢を見たと家来の直江山城守に言ったら、知恵者の直江は、その夢は 「片っ端(箸)から関八州(群馬県を含む関東地方全域)を手中にするという、縁起の良い夢でございます。」と言いました。
その日はちょうどさるの年、さるの月、さるの日、そしてなんと謙信の生まれ年もさる年だったことから、 「この地をさるが今日と改めるぞ」と、 謙信も上機嫌になりました。この『さるが今日』が文字も変わって『猿ヶ京(温泉)』と呼ばれるようになったといわれています。

 ところが、この謙信の永禄三年(1560)の逸話から、加沢記が成立したと思われる天和元年(1681)までに121年の月日が経過しております。加沢記は歴史学上は二次資料として扱われる真田氏の軍記物の説話集で、真田家中の出来事についてはある程度史実とあっているのですが、当時真田氏と対立関係にあった上杉氏の事情には筆者加沢平次左ヱ門はあまり通じていませんでした。
例えば、話の中に出てくる直江山城守兼続の生まれたのが1560年であり年代が合いません。
また上杉謙信の生まれた年は享禄3年(1530年)庚寅年生まれであり、幼名虎千代は寅年生まれにちなんで付けられたと言われています。
この点地元の郷土史家は「取るに足らない話」と素っ気ない扱いですが、猿ヶ京温泉史の著者は『加沢平次左衛門ほどの学者が、謙信の生まれ干支は庚寅であったことを知らぬ訳はなく、猿ヶ京という不思議な名と、永禄三年庚申の語呂合わせから生まれた、猿ヶ京の名の起こりの伝説と知っていて、記録して猿ヶ京の名の関係を、後世に伝えなければならない深い訳が別のところにあったのかもしれない。』と推理しています。
猿ヶ京と言う地名は永禄八年(1565)に謙信が栗林政頼に出した書状冒頭に「猿京近辺之証人共」とあるのが初出となっています。天文年間か永禄年間にはこの辺りの地名として成立していたのかもしれません。

謙信自身は、諱(実名:通称などと異なり、公式の文章などで用います。)を景虎(実家長尾氏の通字「景」と幼名虎千代の組合せ。生母の名前は虎御前であり、謙信の寅年生まれへの執着すら感じられます。) → 政虎(関東管領上杉憲政の「政」を取る → 輝虎(上洛して拝謁した将軍足利義輝の「輝」を拝領する)と出世魚のように変わっていったのですが、地名を改めた例はこの宮野を猿ヶ京と改めた説話の他は伝わっていません。関東平定への思い入れの強さが感じられます。

IMG_4374'
上杉謙信の「猿ヶ京」についての民話の語り「猿ヶ京の由来(謙信公)」
7分32秒 2016年6月5日 大女将持谷靖子


笹の湯温泉と相生館
牧水が昼食を取った笹の湯相生館と生井渓谷


2、若山牧水と「猿ヶ京村と言う不思議な名」

若山牧水の「みなかみ紀行」に猿ヶ京に言及している部分があります。

『読者よ、試みに参謀本部五万分の一の地図「四万」の部を開いて見給え。真黒に見えるまでに山の線の引き重ねられた中にただ一つ他の部落とは遠くかけ離れて温泉の符号の記入せられているのを、少なからぬ困難の末に発見するであろう。それが即ち法師温泉なのだ。更にまた読者よ、その少し手前、沼田の方角に近い処に視線を落して来るならば其処に「猿ヶ京村」という不思議な名の部落のあるのを見るであろう。』

この大正11年の「みなかみ紀行」の旅で若山牧水は法師温泉を訪ねています。当時まだ猿ヶ京は笹の湯温泉1軒と湯島温泉数軒に分れていました。法師温泉からの帰路、牧水は笹の湯温泉相生館で昼食を取ってしばし周辺を散策しています。

『猿ヶ京村を出外れた道下の笹の湯温泉で昼食をとつた。相迫つた断崖の片側の中腹に在る一軒家で、その二階から斜め眞上に相生橋が仰がれた。相生橋は群馬縣で第二番目に高い橋だといふ事である。切り立つた断崖の眞中どころにかすがいの様にして架つてゐる。高さ二十五間、欄干によりかかって下を見ると胆の冷ゆる思ひがした。しかもその兩岸の崖にはとりかぶとの雜木が鮮かに紅葉してゐるのであつた。』

相生橋旧2
牧水が「胆の冷ゆる思ひがした」相生橋

赤谷湖ができた今でも相生橋の辺りは紅葉や新緑の美しい渓谷になっています。牧水が見たかすがいのように架かっている相生橋の姿は手前に赤谷湖畔湖畔遊歩道の橋がかかり、奥には赤谷水管橋が相生橋よりも更に高い空中に架橋され、バンジージャンプのメッカにもなっています。嬌声とともに最大62mの高さから飛び降りる南洋バヌワツの一部民族に伝わる通過儀礼に由来するダイビングの姿を若山牧水が見たら何と思ったでしょうか。

3、与謝野晶子と「猿ヶ京とて怪しき名」
・与謝野晶子・鉄幹夫妻は昭和六年(1931)九月に法師温泉に門弟等と投宿。夜半にかけて短歌会を催すとともに、三国峠や永井宿に遊んでいます。高村光太郎に勧められたと言います。その様子は「法師温泉の記」に記され、当時の三国路の様子を知る貴重な資料となっています。
・また与謝野晶子は昭和十七年(1942)に亡くなりましたが、その三年前の昭和十四年(1939)の秋、猿ヶ京の笹の湯温泉相生館にまた門弟らと宿泊、吟遊しています。
この時夫与謝野鉄幹はすでに亡く(昭和十年(1935)逝去)、三宅克己氏に勧められ女性五名「御一所に紅葉を笹の湯に見に参りました」と言う旅でした。

「上越線後閑駅から三国街道へ入ります途中の笹の湯の紅葉の美しいことを三宅克己氏に伺って居りまして、今年は今年はと思いながら外に参ってしまう結果になっていたのですが、思い立ちまして、近江。辻。池内三夫人とお誘い致し、万木須賀子さんも御一所に五人で紅葉を笹の湯へ見に参りました。赤坂(谷)川が急坂の形で流れてくる所で、橋と渓の湯は二百六十尺の差があると聞きました。紅葉は七八分の見頃でしたから飽くなき心は今少し越後路に近づいて行きたくなり、法師温泉へ翌日は参り、三国の山を仰いでまいりました。(後略)」『消息』冬柏第10巻11号(昭和14年11月号)

〇この二度に渡る三国路の旅は二十世紀の到来とともに『みだれ髪』明治三十四年(1901)の情熱的な短歌で華々しく文壇にデビューした与謝野晶子の晩年の旅でありました。随行の門弟たちの中にも著名な文学者はおらず、すでに世間は与謝野鉄幹、晶子夫妻の存在を忘れていました。与謝野晶子生涯の地方への旅の大部分は与謝野夫妻が地方の有力者や門弟の招きを受けて、揮毫や講演で謝礼を受け取る「旅かせぎ」であったと言われています。しかし晶子の三国路をはじめとする群馬への旅は「旅かせぎ」の旅には当てはまらない、親しい弟子たちとの吟行の旅であり、純粋に晶子は温泉旅を楽しんだと思われます。
中年期の晶子はデビューした当時のように、恋の歌は詠まなくなっていました。むしろ旅先で叙景詩を旺盛に創作しまし、三万首と言われる膨大な短歌を残していました。しかし文壇に忘れ去られた存在であった晶子のこれらの和歌の発表の機会はなく、死後門弟の手により「白桜集」としてようやく世に出ました。
三宅克己
晶子に猿ヶ京を推薦した三宅克己氏の描いた猿ヶ京の風景

昭和六年(1931)、昭和十四年(1939)の二回の三国路の旅で晶子は180首余の歌を詠んでいます。

こすもすと菊ダリヤなど少し咲き里人は云う猿ヶ京城
川面に二百六十尺と云う相生橋にたじろぐ落葉
猿ヶ京新治村の笹の湯にありて悲しむ秋のともし灯
浴泉す猿ヶ京とて怪しき名の深山の関は越えず此方に
片隅に十ほどの柿ひたされていと清きかな笹の旧湯
ほのかにも紅葉の山の日を帯びて水浄まれる猿ヶ京渓
いと高き相生橋が負ふ景色仰ぐはかなき紅葉橋より
『奥上州』

令和2年6月27日
豆富懐石 猿ヶ京ホテル 総支配人

参考:『猿ヶ京温泉史』、『歌うたい旅から旅へ 晶子群馬の旅の歌』上下 みやま文庫 持谷靖子署